9月19日(木)朝日新聞の記事を紹介します。1964年の東京パラリンピックに関する記事です。文中の中村裕医師は、当院の創設者です。
創設者 中村 裕 について↓
http://www.akenohp.jp/about/nakamura/
朝日新聞(9月19日)
『2020東京五輪 スポーツ半世紀』
― 障害者への理解後戻り パラリンピック ―
1964年の東京パラリンピックは障害者とその支え手の意欲を後押しした。
東京パラリンピックに車いすバスケットボールで出場した大分県別府市の須崎勝巳さん(71)は「対戦相手の米国人は、ほとんどが会社で働いていると聞き、驚いた」と振り返る。大会期間中のインタビューで、テレビカメラに「私らも仕事がしたい」と訴えた。
20歳だった62年、バイク事故で下半身不随になった。当時、障害者は家に閉じこもり、人に会わないように過ごす時代。回復不可能と知って、「それはもう絶望した」。そんな時、東京パラリンピックの招致に尽力し、その選手団長を務めた中村裕医師(故人)に出場を勧められた。
圧倒的強さの米国は、片手でボールをつかみ簡単にゴールした。背中側から放つシュートも披露。「障害者にも出来ることはたくさんある」と言わんばかりのパフォーマンスだった。須崎さんと中村医師は、「社会で活躍しているからこそ力強いのだ」と感じた。
65年、中村医師は、別府市に福祉施設「太陽の家」を設立。障害者が働くことが一般的とは言えない中、企業経営者を説き伏せて障害者向けの職場を設けていった先進的な施設だ。現在までに8企業と共同出資で会社を設立するなど、全国で1050人の障害者が働くようになった。
一方、東京パラリンピック出場が縁で、選手2人は東京の企業に就職し、車いすバスケットチームを作った。1人は、日本車椅子バスケットボール連盟初代会長だった浜本勝行さん(故人)。チームで全国を巡り、競技の普及に努めた。須崎さんも、65年に装具製造会社に就職した。
障害者を取り巻く環境が変わりゆく時代だった。60年に制定された障害者雇用促進法は、障害者を雇うことが「努力義務」だった。それが、76年に「義務」になった。企業で働く障害者は、77年から2011年に、約13万人から約37万人に増えた。そんな社会状況と手を携え、パラリンピックが役割を果たした。
しかし、「進んできた障害者への理解が、最近、後退していると思うことがある」と須崎さんは言う。
それは、心のバリアー。障害者が困っていても、声をかける人が少なくなった。障害者との接し方に戸惑う人が多いと感じる。「東京パラリンピックは、その壁を越えるきっかけにしてほしい」というのが、須崎さんの新たな願いだ。(後藤太輔)