1月9日の読売新聞に前理事長の中村裕の記事が掲載されていましたので紹介します。1964年の東京パラリンピックに関する内容です。2020年の東京も楽しみですね。
~読売新聞 1月9日(木)の記事より~
秋晴れの空にヒット曲「上を向いて歩こう」の演奏が響いた。
東京五輪閉幕から約2週間後の1964年11月、代々木公園陸上競技場で東京パラリンピックが開会した。22か国369人の選手とともに、大分県別府市の整形外科医、中村裕さん(84年に57歳で死去)は、日本の選手団長として行進していた。
「パラリンピック」の名で初めて開かれた東京大会の誘致に尽力し、その後のパラリンピックでも団長を務めた中村さんは、「日本障害者スポーツの父」と呼ばれた。転機は、東京大会の4年前に留学した英国の病院で見た光景だった。
事故で手足のまひした患者が少しでも動けると、卓球のラケットを握らせ、プールにも入れる。患者は自分の力で動こうと懸命になり、半年で8割以上が社会復帰を果たしていた。
日本では障害者が病院や自宅にこもり、家族が周囲から隠すことさえあった。「患者を社会に参加させてこそ医療だ」と誓った。
帰国後、大分市で障害者の競技会を企画した。ところが、「障害を悪化させる」「見せ物にするのか」と同僚医師らは猛反対した。
それでも、保養所や病院で地道に声をかけて回った。脊髄を侵され、別府市の保養所にいた上野茂さん(80)は「日陰にいる私たちが主役になれるのか」と胸が高鳴った。
「障害を克服し、正々堂々と戦うことを誓います」。選手宣誓までした上野さんは、車いすでやり投げや卓球に出場。生涯忘れ得ぬ体験になった。
この競技会の成功後、中村さんは留学先の医師から「東京五輪に合わせて大会を開けないか」と打診され、官庁への陳情や資金集めに全国を奔走した。
そして、開かれたパラリンピック。車いすバスケや卓球、砲丸投げ…。日本人選手53人は中村さんらが病院や療養所から連れてきた患者が大半だった。約7割が仕事をしていた海外の選手とは体格も違い、相手にならなかった。
ただ、充実感に満ちた選手たちの表情は、何よりの収穫だった。
「みなさんが社会復帰できる施設を必ず作らねばならない」。解団式で、中村さんはこう言った。翌年、竹細工などで障害者を雇用する社会福祉法人「太陽の家」を別府市に設立。さらに「働いて税金を払ってこそ真の自立」と考え、より多くの障害者が働けるよう大手メーカーの協力を得て最新の福祉工場を作った。
足が使える人はペダル式、手やひじが動く人はボタン式など障害に合わせて機械を改良した。工場は操業1年目から黒字に。中村さんは、納税証明書を机の上に飾った。
太陽の家はその後、愛知、京都にも拠点を設け、計約700人の障害者が働くまでに成長した。
上野さんは79年、別府市の本部がある敷地内に車いすの製図や修理用の工場を設けた。障害者を雇い、今も中村さんの遺志を継ぐ。
脳性まひの人には1~2年かけて技術を教える。不自由な指先でタイヤのチューブを取り出し、車輪のスポークも修理するようになる。「働くと、みんなええ顔になる」と上野さんは言う。
上野さんは海外にも活動の場を広げ、20年前からベトナムやラオス、タイなどで車いすの製造法や障害者スポーツを教えている。
この半世紀、障害者を取り巻く環境は大きく変わった。2012年のロンドンパラリンピックには過去最多の164か国・地域約4200人が出場した。「今度の東京大会では、僕が教えた国の選手が出場するかもしれない。今からワクワクします」。中村さんの前で選手宣誓したときの興奮を、世界の障害者が感じることを願っている。
(迫田修一、おわり)