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副院長の中村です。先日、私の親友の岩本一郎君のことを書きましたが、大阪の彼のお母様から岩本君と彼の家族の大切な日々を綴った冊子が届きました。早いもので、彼が逝ってもう1年が経ちました。お母様が書かれたこの冊子、少し長い文章ですが、載せてみました。彼の家族と音楽への愛情、それをずっと見守るお母様の心情が、こころに深く染み込んできます。本日10月4日は彼の命日。家族や友達の大切さ、掛替えのなさと音楽の持つ素晴らしい力を改めて教えられました。

 

『トーキング・ウィズ・ファミリー~トロンボーンはパパの声~』

ある朝シンタロウは、パパとママの話し声をベッドの中で聞きました。シンタロウは、まだ寝ている妹のミキにささやきました。

「ミキ、パパたちが僕らにケータイを買ってくれるって言ってるよ」

ミキは驚いて飛び起きました。小学六年生のシンタロウも、四年生のミキも、友達と同じようにケータイを持ちたくて、パパとママにせがんでいましたが、ずっと買ってもらえなかったのです。

朝の食卓で、パパが言いました。

「二人ともよく聞いてね。パパはちょっと病気が見つかってね。入院して手術をしなくてはならないんだよ。でも大丈夫。パパはかならず元気になるから」

シンタロウとミキはびっくりしましたが、この間からパパに食欲がなかったり、好きなワインを飲まなかったり、ママが心配そうにしているのを知っていました。

「さあ、みんなでケータイを買いに行こう。パパの入院中、ママは大変だし、なにかのとき、連絡をとったりできるからね」

「やったぁ」と喜びたいところですが、二人ともちょっと複雑な気持ちです。

「パパは絶対に大丈夫よ。みんなでパパを応援してあげようね」

ママがにっこりして言ったので、少し安心しました。

シンタロウは白色のケータイ、ミキはオレンジ色のケータイを買ってもらいました。パパ、ママ、パパのお父さんお母さん、ママのお父さんお母さんへ、電話をかけたり、メールを送ったりできるようにしました。二人ともそんなことは朝飯前です。いつもママのケータイをさわらせてもらっていたからです。写メールだってできます。二人ともケータイをケータイして張り切っています。

パパは四十六才で内科のお医者さんです。パパのお父さんのあとを継いで、町の医院の院長さんをしています。そして、大学の非常勤講師や、別の専門病院の指導医もしています。ママも同じく内科のお医者さんです。昔、パパが大学の医局にいた時、研修医として入ってきたママに一目惚れしたそうです。今でも二人はラブラブ夫婦です。いつも一緒にテニスしたり、おいしいものを食べたり、ワインを飲んだりしています。パパの大好きなジャズをママも大好きなこと、時々パパのトロンボーンにあわせてママがピアノを弾くことも知っています。

パパの病気は、検査によって小腸の腫瘍ということが分かりました。とても珍しいそうで、「早く見つかって良かったね」と皆で話していました。それから、パパとママは大忙しになりました。自分の入院中、患者さんに迷惑をかけないようにママやスタッフにあれこれ教えたり、ずっとバタバタしていました。春休みに入っているシンタロウとミキは、兄弟力をあわせて家事をしたり、パパとママのお手伝いをしました。

入院してから、パパは絶食となりました。

「ゴハンが食べれなくて、パパは大丈夫なの?」

シンタロウとミキは心配です。IVHというチューブをつけて、そこから栄養を身体に入れるんだよと、お医者さんが説明してくれました。手術をするためのいろんな検査もありました。

この頃、パパには大事な予定がありました。梅田にある「ブルーノート」というジャズクラブでコンサートがあり、パパはその責任者で、トロンボーンの演奏もすることになっていました。家族みんな心配でしたが、パパは胸をはって言いました。

「もちろん、パパはみんなの前で演奏するよ」

音が出せない病室では、マウスピースという楽器の先っぽだけを口にくわえて練習し、外出許可をもらって家で練習したりもしました。

コンサートの当日、パパはIVHのチューブをワイシャツの衿で隠して、会場へ行きました。パパの病気のことを知っているのは、ごくわずかです。満席のお客さんの中に、シンタロウやミキたちもいます。家族みんなドキドキしていました。特にパパのお母さんがとても心配そうにしていたので、シンタロウは言いました。

「大丈夫だよ。絶対に何でもうまくいくって考えるんだ。パパがいつもそう言っているんだ」

「シンタロウはえらいねぇ。ばあばもそうしたい」

ステージに出てきたパパは、いつものようにトロンボーンを吹き、トランペットやサックスなどの管楽器や、ピアノ、ベース、ドラムの仲間と一緒に、お得意のナンバーを次々と演奏しました。トロンボーンがとても重そうにみえる時もありましたが、曲の最後に、ホホを紅く染めながら、天に向けてトロンボーンを吹くのをみて、シンタロウもミキも「かっこいい」と思いました。

無事に演奏が終わり、たくさんの花束を受け取ったパパは、すぐにまた病院に戻らなければなりません。ママが付き添って病院へ車を走らせました。パパにとって、たった六時間くらいの自由時間でしたが、仲間やお客さん、そして「ジャズ」という音楽から元気をたくさんもらったみたいでした。

コンサートから三日後、パパの手術が行われました。シンタロウとミキは、パパのお父さんお母さんの家で、ママからのメールを待ちました。夜の八時半すぎ、シンタロウの白いケータイにメールが届きました。

「まだ目が覚めていないけれど、手術は無事に終わりました」

シンタロウもミキも跳び上がって喜びました。天に向けて吹いたトロンボーンの音色がきっと神様に届いたんだね。

手術を終えたパパは、十日ほどの入院で退院してきました。退院したその日に患者さんたちの診察もしたそうで、パパのお母さんは心配していました。

「仕事は二の次にして、養生してね」

パパを見舞った外科の先生も言いました。

「小腸の腫瘍は症例が少ないから、六ヶ月は大事をとってくださいよ」

パパは以前と比べて少し痩せていたし、傷口も少し痛むようでしたが、周りの人たちに心配させないように、仕事場でも家でも笑顔で毎日を過ごしていました。

夏のある日、パパのお母さんが、長野県の蓼科というところへ旅行へ行き、オルゴール館でオルゴールを買ってきました。シンタロウもミキもどこかで聞いたことのある曲でした。それはディズニー映画「ピノキオ」の主題歌「星に願いを」でした。パパがよくトロンボーンで吹いていて、パパのお母さんが大好きな曲だそうです。

輝く星に心の夢を

祈ればいつか叶うでしょう

きらきら星は不思議な力

あなたの夢を満たすでしょう

家族みんなの思いにぴったりの曲です。シンタロウもミキも、この曲のことが好きになりました。

百舌鳥八幡神社の秋祭りも終わり、朝夕めっきり冷えはじめ道行く人もコートをはおっています。パパは順調に回復していきました。以前と同じようにトロンボーンを吹いたり、テニスをしたり、ワインを飲んだりしています。もちろん仕事もバリバリしています。ちょうど、このころ新型インフルエンザが大流行していました。シンタロウとミキの友達の中にもこの病気で学校を休んでいる子がいます。新型のワクチンの対応に追われているパパとママを見て、

「大変そうだけど、みんなの命を助ける仕事ってかっこいいなあ」

二人は思いました。

そんなある日、パパが初めてCDを出すことになったとママが教えてくれました。録音は終わっていて、全部で十曲入り。あの「星に願いを」もあります。CDのタイトルは「トーキング・ウィズ・フレンズ」といいます。「友達と一緒に話す」。中学生になったシンタロウは英語を勉強しているので訳すことができます。このタイトルはママが考えました。トロンボーンは語るように吹くのだとパパがいつも言っていたことや、CDを作るにあたり、たくさんの友達の支えがあったからでした。

CDのジャケットは、ある絵描きさんが描きました。ブルーの背広を着てトロンボーンを吹いているパパの絵です。この原画はパパがいつも練習する部屋に飾ってあります。その部屋は、ママがお嫁に来たときに持ってきたグランドピアノや、譜面台などがあります。学校の音楽室を小さくしたような、この部屋がミキは大好きでした。シンタロウはトランペット、ミキはクラリネットを吹くことができます。

パパは高校生の頃に、トロンボーンを吹きはじめたそうです。運動会の時に「聖者の行進」を演奏していたとパパのお母さんが言っていました。

「トロンボーンはね、一番人間の声に近いんだよ。僕はそれが好きなんだ」

パパはどうしてトロンボーンを選んだかについて、よくこう言っていたそうです。

パパのお父さんお母さんの家で、出来上がったばかりのCDをみんなで聴きました。スピーカーから流れてくる音は、いつも聴いているパパの音、パパの声でした。タイトルの通り、友達たちと一緒に楽しく会話をしているようでした。

発売の前日、CD発売記念ライブをすることになりました。会場は堺中百舌鳥駅近くのステーキハウスで、たくさんの人が来てくれました。パパは、ベース、ピアノ、ドラム、テナーサックス、トランペット、ボーカルなどの仲間と一緒に、心を込めてトロンボーンを吹きました。CDを買ったお客さんにサインをしたりしているパパをみて、シンタロウもミキも少し恥ずかしく、そして誇らしく思いました。

年も明けて、寒さの中にも春の兆しが感じられるころ、パパの病気が「再発」したとママから聞かされました。去年の春に手術してからずっと元気だったので、シンタロウもミキもびっくりしました。でも、治療に通いながらも、パパもママもいつもと同じように過ごしていたので、大丈夫だと思いました。

「絶対に何でもうまくいく」

シンタロウはパパの言葉を思い出しました。

その言葉の通り、パパは二回目の手術を乗り切った後に、二枚目のCDを作りました。今度は「ナウ・ユー・アー・トーキング!」というタイトルです。この名前もママがつけました。「そのとおりだよ!」とか「そうこなくっちゃ!」という意味だそうです。パパらしい前向きなタイトルだと思いました。今回の表紙は絵ではなく、写真です。大好きなお店「ヌーヴォー」のカウンターに座り、トロンボーンとお酒を持っているパパがかっこよく写っています。

そして、三回目の手術を終えて、しばらくした時、病と闘いながら仕事も音楽活動もしているパパを紹介したいとテレビ局の方から打診がありました。身体にも心にも負担がかかるからと、家族は反対しましたが、

「パパと同じように病気と闘っている人に、勇気を与えることができるなら」

パパは快諾しました。東京で行われたコンサートにも、取材のカメラも入りました。ステージに上がったパパは自分の病気のこと、演奏できる喜びを語り、トロンボーンを吹きました。ステージの袖には、パパを見つめるママの姿がありました。

パパが最初の手術をしてから三年半がたちました。小学生だったシンタロウは高校生に、ミキは中学生になりました。その間に三回の手術、抗癌剤による治療など受けてきました。家族はパパが病気と闘っていても病人扱いせず、できるだけ普通の生活をすることを心がけていました。いつも前向きなパパの姿は、逆に家族のみんなのほうが励まされていました。

六月十五日、パパは五十歳の誕生日をむかえました。その日パパは、テシマ先生やたくさんのジャズの仲間たちと一緒にライブをすることになりました。パパの身体は少し痩せていましたが、ステージに立つと、いつもとかわらない笑顔でメンバーを紹介し、トロンボーンを吹きました。テシマ先生は八十歳半ばのトランペッターです。パパがまだ独身の頃、ジャズが生まれたニューオリンズへ一緒に行って、現地で演奏もしたそうです。パパの友人のエイジロウさんも、九州からサックスを持って駆けつけてくれました。客席には、パパの大切な多くの友達たちの姿がありました。最後の曲は、出演者みんなが一人づつソロを演奏し、最後にみんなが揃って、それはそれはすばらしい調べとなりました。そのステージには、トランペットを持ったシンタロウと、クラリネットを持ったミキもいます。みんなでパパの誕生日をお祝いしました。

パパは、そんなに遠くない日にお別れがくることを、ゆっくり優しく話してくれました。けれど、シンタロウもミキも実感がありません。そんな二人の不安をあらわすように、激しい雷雨と稲妻が起こり、それはしばらく続きました。あたりがようやく静まったとき、窓を開けると、大きな彩の輪が見えました。きれいな優しい虹でした。パパが演奏していた「オーバー・ザ・レインボー」が頭の中で流れます。

虹の彼方の

青い空の下

そこでは、

どんな夢も

叶えられる

十月四日の夜、パパは「ありがとう」と最後の言葉を言いました。シンタロウも、ミキも、ママも、家族みんなが「ありがとう」とパパに言いました。

黒いソフトケースから光輝くトロンボーンを取り出し、慣れた手つきで組み立てます。ベル管を首に当て、チューニング管を調整して音程を整えます。ステージ上からたくさんの友達がパパを呼んでいます。

「イチロー」

トロンボーンはパパの声。いつも優しく家族の心に語りかけてくれます。

 

あとがき

 息子一郎の発病から足掛け四年近く、思いつくままに文章を綴ってきました。ハッピーエンドで終わりたいと願って書きはじめた母の独り言です。家族の後押しもあり、今回こういうカタチにして残すことができました。改めて文章を読み返し、一郎の一生は、本当に多くの方々に支えられ愛されたものであると思い、感謝の気持ちでいっぱいです。立派なミュージシャンの皆様のおかげで出すことができた二枚のCDは、私の宝物です。澤崎至さまの書いてくださったライナーノートも暗記するほど読みました。一郎のジャズを上手に引き出してくださったヌーヴォーの大石浩之さまと藤野宏美さま、トロンボーンの師・米阪晴夫先生、ブルージン・ジャズ・オーケストラの団員の皆さま、難しい病の治療を懸命にしてくださり、しっかりと生き抜く力を最後まで与えてくださった先生方、大阪府医師会軽音楽部の手嶋先生、山本先生、共に演奏した諸先生、いつも励ましてくださった友人方、本当にありがとうございました。そして今回、表紙絵だけでなく編集デザインを担当してくださった藤岡宇央さんおかげで素敵な冊子になりました。日経新聞でジャズの絵を描く藤岡さんのことを知り、連絡を取ってみると、なんと一郎の名刺や二枚目のCDジャケットのデザインをしてくださった方でした。不思議な縁を感じました。この一冊を開くたびに、岩本一郎のことを思い出してくれると幸いです。最後に、楽しい時も辛い時も一緒に歩んできてくれた家族にお礼を申し上げます。

 

平成二十五年秋

岩本英子

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